レクリエーショナル・ビークル的音楽雑記

音楽にまつわるお話を徒然なるままにします。好きなもの紹介・新譜レビュー等

視覚中心主義への挑戦と音楽の隆盛との関係性

視覚要素が重視される世界でのルッキズム促進

現代のコンテンツは、画像や映像などの視覚的要素に支配されている。

2010年にリリースされたInstagramの繁栄や、Twitterで消耗品のごとく流れていく美的感覚を刺激する写真etc。

結果的に我々人間の中の一定数は、昔は曖昧であったヴィジュアルに於ける相対的評価指標というものの明確化を強制された様な錯覚に陥り、時に優越感に浸ったり、時に魅了されたり、時に羨望したり、時に劣等感に苛まれたりする。

SNSは人間の深層心理を操り、甘美さと残酷さを日常生活の内にひっそりと忍び込ませる。

これは穿った見方かもしれないが、視覚野支配のSNS社会のネガティブ性の一側面である可能性としては否定出来ないのも、また事実の筈である。

 

況してや、そういったネガティブ性を利用したマーケティングが十二分に蔓延したこの世界では、時としてジェンダーという概念へも侵犯し、「何かを強制された様な気持ちになる」という様なリスクを抱え続けてもいる。

見たくない世界を見せてしまうことも、課題の1つであるのかもしれない。

というのは、また別の話。

 

 

Clubhouseというアプリの話

Clubhouseというアプリが最近話題になっているのはご存知だろうか。

news.yahoo.co.jp

音声だけでの雑談を目的とした、完全招待制のアプリである。

アーカイブを残さず、ただその場で作り出した話題で複数人と会話出来るというところが、このアプリのほぼ全貌である。

誰かに招待された人間が何の気なしにアプリを立ち上げて、部屋を立ち上げるか、既に作られている部屋に入るかして気ままに雑談を楽しむ。

コロナ禍という状況も相まって、このアプリの極めてシンプルな機能は利用促進に繋がりやすいと言える。

しかし、僕はこの手のアプリのシェアが増大し続けるとしたら、また別の1つの可能性が芽生えてくるのではないかと思っている。

 

音声のみの雑談の気軽さと公平性

このClubhouseの特性については例えるならば音声版twitterとはよく言ったもので、動画ありきでのコミュニケーションに比べれば、実際にtwitterとまではいかないまでも、参入への心理的ハードルは比較的低い。(そもそもTwitterはその参加しやすさから治安が悪い)

例えば夜寝る前に、ふと思いつきでこのアプリを開き、睡魔に襲われる前の束の間に気軽にコミュニケーションの場を持ち、楽しむことが出来る。

SNS特有のデジタルタトゥーのリスクに晒されることもないし、大量の情報の濁流に飲まれることもない。(少なくとも今は)

これは参入する側の心理についてもそうだが、受け手側の心理的ハードルを下げやすいとも言えるだろう。

姿が見えないことで、先入観なしに相手と対話をするという選択肢を取れるのだ。

 

今まで音声を中心としたコミュニケーションアプリのプチブームは幾つかあったが、この限界までカスタム性を削ぎ落としたClubhouseについては、ユーザーにかかるストレスを最大限削ぎ落とした、いわば現SNS社会へのチャレンジという構図になるのかもしれない。

音声でのやり取りの文化が拡大することで、視覚的要素を中心とした領域とはまた別の領域が出来上がるのだ。

人類史の文化は時に思いもよらない発展を遂げたりする。

僕は音声文化が画像・動画中心の文化と対立するのか、共栄していくのか、あるいは消滅してしまうのか、その顛末を見届けていきたいと思っている。

 

素顔を隠した音楽家

ここでようやくだが、音楽の話をしていきたい。

素顔を隠したミュージシャンというのは今までも一定数いたと思うが、現在が最もその手のミュージシャンが脚光を浴びている時期なのではないか。

www.youtube.com

知名度を爆発的に伸ばしているyamaやAdo、Eveはその典型例ではないだろうか。

 

素顔を隠すことで得られるものは何か。そのミステリアス性、曖昧さという魅力だ。

現代のコンテンツとしては、最早素顔を出すことが必ずしも有効なコンテンツとは言い切れないのである。

 

現代社会ではジェンダー論が注目を浴び、性の二分化への警鐘、多様性という概念が緩やかであるけれども、確実に重視されてきている。

その曖昧性への許容や感動、それと今回の素顔を隠したアーティスト達の曖昧さ、ミステリアスさは何となくシンクロするところがあるのではないか。

 

また、視覚要素が中心となったSNS社会に於いて、Clubhouseの様な音声中心での雑談アプリが注目を浴びていることも、必ずしも素顔を出すことが重要ではないことを示す音楽シーンの発展の現状と、不思議とシンクロする要素はないだろうか。

それぞれの文化の発展が、結果的に同じ文化の戸を叩くことに帰結しないだろうか。

 

恐らくこの考察は、かなり偏った見方であるかもしれない。

でも僕には、そう思えてならないのだ。